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日本経済新聞1989年12月2日
小西会長、日経朝刊・文化欄に寄稿記事
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----- 以下掲載記事全文
≪光り輝く島の”わが子”たち≫
■スリランカの子供を教育里親制度で支援■−小西菊文−
幸せの基準とは何か
インド洋に浮かぶ「光り輝く島」スリランカ。
キラキラとした笑顔あふれる子供たちから
先月18日、345通の手紙が届いた。
目をつぶるとかわいい子供たちの顔が1人ひとり浮かんでくる。
澄んだ美しい目、人なつっこい生き生きとした表情。
土ぼこりにまみれても命が躍っているような小さな子供たち。
真っ白な制服を誇らしげに着て勉強をしている生徒たち。
辻々にある仏像に向かい、
「生きる道を教えてくれてありがとう」と手を合わせるしぐさ。
そこには自然とともに生きる素朴な人々の暮らしがある。
ふと、「発展」とは何を指すのだろうかと思う。
今の日本の”幸せの目盛り”とはまったく別の
生きるものさしが見つかる世界だ。
私が代表を務める国際交流団体、
CPI教育文化交流推進委員会は、
日本の有志が、スリランカの恵まれない子供(8-13年生)に
支援の手を差しのべるため「教育里親」を募り、
現地の全国テスト優秀者から選んだ子供を「里子」として、
学用品などを贈る奨学制度を進めている。
「戦争中の疎開で一家ばらばらになった頃、
多くの人の助けで学業を続けられたことが忘れられない。
今は亡きその方々への恩に報いる代わりに」(56歳・教師)
「経済的に困窮していても勉学に励む、
意思のある子供の希望を奪ってはならない。
私の責任で途上国の人材を1人でも多く育てたい」(40歳・会社役員)
「途上国の子供とつながりが欲しかった。
宗教・政治や使途不明瞭な活動に利用されたくない。
肩ひじ張らずに……」(16歳・高校生)
「夫を亡くし苦労してきた。社会や平和のため役立ちたい。
里子との交流は、これからの人生の幸せとなる」(47歳・会社員)
里親たちが名乗りをあげたきっかけは様々だ。
このような1人ひとりの思いを生かして、
個人やグループ・地域からの発案による交流が一段と活発化している。
目的がひとつだからこそ連帯の輪も広がるのだろう。
奨学金支給をした直後に送られてきた13歳の里子の手紙を紹介したい。
「愛する日本のお母さんへ。あなたと出会って私は大変幸せです。
私の父は鉄道の保安係をしていましが、
1年前に事故でなくなってしまいました。
母は働きに出ましたが給料は少なく家族を支えられません。
二人の兄は学校を辞めて働くことになりましたが、
私は学校の成績がよかったので
奨学金テストを受けるように言われました。私は頑張りました、
ほんとうに一所懸命。
でも、国の奨学生の枠は狭く、入れませんでした。
これで学校で勉強できなくなったと思い、家族も悲しみました。
そのような時、校長先生から私の家の状態を書くよう言われました。
五人家族で、粘土の壁と椰子の葉の屋根で作られた二間の家にいること、
家族の収入、私に勉強を続けさせたと家族も望んでいることを書きました。
数日後、私の家にスリランカ−日本教育文化センター
(C.P.I.の現地協力団体)の方がこられて話し合いをしました、
そのあと、あなたが私の支援者となると知らされました(中略)。
自分と学校・地区・あなたのために、私には責任があります。
必ず、スリランカの将来を作る立派な市民となるよう頑張ります。
頂いた学用品や制服や本は大切に使います。
学校のほかに補習学校にも行けますし、
日曜には日本語学校にも通えるのです。
日本のことを知り、スリランカを知ってもらうための勉強だと思います。
私の夢は医者になることです。
お母さん、あなたは少しからだが悪いとのことですが、
私は医者になって日本へ行き、必ずあなたを治してみせます。
待っていてください。
日本のこと、ご家族のことをもっと知りたいので、お手紙をください。《後略》
(このあと、教育里親の不足を訴え、スリランカの学習センター建設の希望が
書かれてあるが、スリランカの施設は1993年に、
インドネシアの施設は1997年に、それぞれ竣工した。)